生國魂神社(生玉神社)

jinjya_image

生國魂神社(いくたまじんじゃ)は大阪を代表する神社であり、古くから「いくたまさん」と呼ばれ親しまれている。
また、「生玉神社」と記載されることもあるが、正しくは「生國魂神社」である。

◆PHOTO GALLERY

 

生島大神・足島大神を主祭神とし、相殿に大物主大神を祀る。主祭神二神は宮中でも生島巫(いくしまのみかんなぎ)によって祀られ、歴代の天皇即位の際には国家の祭祀として二神を祀る「八十島祭」が行われた。

 

社伝によれば、第一代神武天皇が九州より東征の旅に発たれ、瀬戸内海を通り、航海の終着地点である難波津(後の石山碕=現在の大阪城付近)に着岸された際、その地に国土の平安を願い天皇自ら「大八洲國の国魂(日本列島のそのものの御神霊)」である生島大神・足島大神をお祀りされたのが生國魂神社の創祀と伝わる。
すなわちこれが、当神社が大阪最古にして総鎮守、伊勢神宮成立以前の国家神である所以である。

 

皇大神宮、住吉神社、天満宮、鴫野神社、城方向八幡宮(きたむきさん)、家造祖神社(やづくりさん)、浄瑠璃神社(じょうるりさん)、鞴神社(ふいごさん)、稲荷神社、源九郎稲荷神社(げんくろうさん)、精鎮(せいちん)社が境内社がある。詳細は、こちらのページへ。
shosaikotira

 

◇生玉夏祭(いくたま夏祭)

2080k

7月11日 ・12日(大阪三大夏祭のひとつとしても知られる)。
「陸の生玉」・「川の天神」と並び称される大阪三大夏祭りの魁。明治 – 昭和初期の最盛期には数千名を超える渡御列で賑わった。
戦火により御鳳輦を始めお道具類を失ったが、往時の伝統は受け継がれ、大阪に本格的な夏を告げる祭りとして、多くの浪花っ子に親しまれている。

◆PHOTO GALLERY

◇大阪薪能

8月11日・12日。
大阪城築城前の天文15年(1546年)、数万人の観衆を集めて生國魂神社に「能」が奉納された故実にならい、昭和32年より毎年御神前で演能されている。
開催の二日間で八番の能と仕舞・狂言という豊富な内容に加え、観世・金春・宝生・金剛・喜多の五流派揃い踏みによる演能は、夏の夜を焦がすかがり火とともに、観る者を幽玄の世界へと誘う。
大阪を代表する夏の風物詩として、諸外国の人々にも親しまれている。

◇彦八まつり

165k 040k

毎年9月の第1土曜日、日曜日(上方落語協会主催)。
上方落語の祖・米澤彦八は、江戸時代中期に当神社の境内で「軽口囃」や「しかた物真似(役者の身振りや声色を真似る芝居囃のルーツ)」を演じていた。
当時、境内には芝居小屋や見世物小屋が軒を連ねて多種多様な芸能が行われていた。
当神社境内が舞台となった近松門左衛門の『曽根崎心中』もその一つで、生國魂神社が上方伝統文化の発祥の地と言われる所以である。
上方落語の原型を確立した彦八の世評は頗る高く、明治中頃までは落語家の事を「彦八」と呼んだ程である。
この彦八の遺徳を偲び、平成二年に記念碑が境内に建立されると共に、「彦八まつり」が上方落語協会の落語家総出演で盛大に催されている。

 

◇近松門左衛門

近松門左衛門の『生玉心中』は当社の境内が舞台である。『曽根崎心中』にも当社が登場する。

◇井原西鶴

152k

「世間胸算用」「好色一代男」など浮世草子の創始者で知られる西鶴は、元禄前期に当神社を中心に活躍した。
数々の不朽の名作を世に出す一方で、それ以前は談林派の俳人として様々な興業を催し、当神社の境内で一昼夜をかけた延宝八年(一六八〇)の矢数俳諧では、四千句の独吟を達成した。

◇生玉人形

当神社の門前町で売られていた事によりこの名がある。
大名・武士・三番叟(彦八)・町人・娘(巫女)など十種類前後あり、大阪を代表する郷土玩具である。
昭和初期まで伝わっていたが、その後廃絶した。人形浄瑠璃の文楽人形を玩具化した「棒人形」と呼ばれるもので、人形の胴体と手に付いた竹串を動かして遊んだ浪花っ子の基本的な玩具である。

◇松尾芭蕉

句碑「菊に出て 奈良と難波は 宵月夜」 元禄七年九月九日、芭蕉が奈良より難波に入り、当神社にて詠んだ句である。
この来阪は芭蕉最後の旅であり、10月12日に大阪にて客死する。

◇松木淡々

句碑「しののめや 涼しき綿の 花ざかり」 大坂の商家に生まれた淡々は芭蕉の後継者を自認し、半時庵とも呼ばれ、上方享保俳壇の中心として活躍した。

◇生田花朝

句碑「餅花の 柳芽をふく 二月かな」 女性初の日展入賞者を果たした菅楯彦門下の花朝女は、大阪風俗画の第一人者であり、俳壇では浪花俳壇南水宗近の後継者である。

◇織田作之助

150k

大阪で生まれ、大阪を題材にした小説を残した昭和初期の作家。代表作に「夫婦善哉」がある。